La Bohème – Puccini

「新しい年」というものを思い焦がれることがなくなったのは、いつからだろうか。

まるで数字が変われば世界が変わるとでもいうかのように騒ぎ立てるテレビの画面を見ながら、自分も密かに同じ期待を持って年が変わるのを待っていたものだ。

しかしいつの間にかすっかりと様子が変わった。

ある年から私はテレビもすっかり忘れて、ときより遊んでいる子供に目を配るかのように左手の時計に目を配る程度になった。それも果たして動いているのかどうかさえも怪しい70年代の自動巻時計で、後で気づいたことには、1時間を40分強で回る代物だった。

無限の時間を古代ローマの神学者がさっぱり切り抜いて作り出した抽出物…すなわち西暦というものに影響されるのは、ある意味壮大な自然をちっぽけの窓から覗くようなものだ。

など皮肉を言ってみたこともあったが、本当は普段からそんなことを思っているわけでもない。

いつも寒い季節になると、La Bohème – Puccini の旋律が部屋の中で繰り返し流れることになる。そして私はこの曲こそ、新年を待ちわびる心を盗みさった主だと感じている。

La Bohèmeは「ボヘミアン生活の情景」という小説を基に、ジャコモ・プッチーニが作曲したオペラである。

夢を追う若者たちが極貧と凍てつく寒さの屋根裏部屋で茶化し合いながらクリスマスの夜を過ごす。

出会いがあり、別れがある中で彼らは深い悲しみと喜びを体験する。

しかし物語の中に一貫して存在するのは、「儚さ」である。

運命の人との別れ、その深い悲しみさえも、ひとときの情景としていつかは流れ去ってしまうような儚さだ。

明日になったらそのアパルトマンは空っぽになっていて、ただひんやりとした空気だけが留まっているかもしれない。明後日になったら、カルチェ・ラタンの馴染みの店とは全く違う場所を、今はまだ知らない人と共に目指しているかもしれない。そもそも極貧の中で夢を追う若者たちは、いつまでもそこでそうしているわけにはいかないのだから。

それなのにLa Bohèmeの中で、彼らは底抜けに明るく、決して虚無感を覚えさせない。彼らには今しかなく、今に笑い、今に泣き、今に希望を持っているからである。その今が何時であるか、何年であるかも彼らは知らない。

第一幕であまりの寒さに耐えかねた主人公と仲間たちは、主人公が紙に書いた詩を燃やすことで一瞬の暖を取る。

ある意味これは劇中劇の世界だ。あまりにもバカバカしく、無意味な行動を大真面目に演じることで、彼らは寒さをごまかしているようにさえも思える。

しかしその行動は彼らの哲学をよく表していると言えるだろう。

そしてこの儚く、清々しいオペラにどっぷりと浸かり始めたのと同じ頃に、あの自動巻の時計はすっかり働くなくなったというわけである。

過ぎ去った今と、今と、来るべき今がある。

そう思ってからは胸を高鳴らせて新年を待つことはなくなったが、そのかわり私はこの瞬間を実に愛おしく感じるようになった。(今とはなんと美しく、儚いことだろう!)

まるで時計の見方も、カレンダーの役割も、そして生と死の意味も知らなかった子供の頃に戻ったかのように、今このときが楽しくて仕方がないのである。

また長話になってしまったが、そうした実に純粋で幸せな時間を過ごしているときというのは、あるいは自分で空に様々な種類の飴玉を描いて食べているようなものである。

そしてそのように過ごしていると、とっくに2020年になり、三ヶ日も過ぎ、二週間も経った頃にふと我に帰って「新年の挨拶」などという記事を執筆したりするものなのだ。

今年はそのような空想さえも文字に起こし、この瞬間のひらめきを大事にしながらリナシメントの記事を執筆していきたいと思う。

終わりに、既に何度も引用し、レコードだったらとっくに擦り切れているであろうLa Bohèmeの一節を今一度、ここに引いておこう。

E come vivo? Vivo.

In povertà mia lieta é scialo da gran signore, rime ed inni d’amore.

Per sogni, per chimere  e per castelli in aria

l’anima ho milionaria.

私がどのように生きているのか?

私は生きているのです。

貧しさの中で私の幸せは、偉大な紳士の贅沢である愛の讃歌と詩。

夢と空想、そして空に描いた城で

私の魂は億万長者です。

 

備忘録

小さな子供だった頃、私たちは点であった。上も下もなく、自分は自分でしかなかった。前も後ろもなく、「今」がひたすら続いていた。大人になるうちにその感覚はなくなり、まるで身体がいびつな立体になったかのように、不明瞭に上や下や前や後ろに伸びていった。やがて完全にその形を捉えられなくなった私たちは、他の人たちの目を借りてその形を認識し、安心するようになった。こうしてありとあらゆる部分に階級が生まれた。漠然とした前後を不安に思うと、「予定」と「思い出」によって後ろと前を区切ることにした。しかし肝心な「今」が、まるで国境線にまたがる村のようにどちらつかずな存在になってしまったのである。しかし落ち着いて見てみれば自分の身体の形はそのままで、自分は一つの点としてそこにいるのだ。

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後天的イタリア人。 メンズファッション、車、オペラ等について執筆する兼業ライターです。 本業は田舎の洋服店。