オランダでサイクリングするとどうなるか

まだらの牛

以下はオランダの自然について、サイクリングを通して描いたエッセイ風の記述です。筆者の住んでいる地域は都市と都市との間がGroene Hart(緑の心臓)と呼ばれており、オランダの主要都市の間にありながら、ポルダー(牧場などがある湿地)を始めとして緑豊かな自然を残している地帯です。このGreone Hartはオランダの大きな特徴の一つといえ、一歩都市を出ると(その都市も決して東京のような高層ビルの林立したものではなく、古い建造物がよく保存されているものですが)、広大な草地や林、森が広がるのです。

自転車を持っていなかった。自転車大国オランダで自転車を持っていないというのは肩身が狭い。路上を歩いていると、後ろからいつの間にか音もせず近寄っていた自転車にさっと追い抜かされる。ほんの数秒前に後ろを見ても誰もいなかったというのに、オランダの自転車は速度が速いのだ。漕ぐ人々の足は馬みたいに発達していることもあるし、細くやわそうに見えることもある。下半身がパツパツのジーンズ姿の若い女性がとんでもないスピードで走っているのは、発達した腰から下をみればうなずける。それは見るものに畏怖すら与えるのだ。のろのろ歩いていても稼げる距離はたかが知れている。オランダに来たら健康的に自転車に乗るべきなのだ。

こちらに着いてすぐのころに自転車を盗まれた。駅前の駐輪場に置いておき、仕事から戻ってきたらなくなっていた。むなしく広い駐輪場を何周もしたが、自分の自転車は影も形もない。ここにはこれだけ自転車があるというのに。どれひとつとして自分のものではない。昨日まで自分の手元にあったものがなくなるというのは、にわかには現実と思い難い。家までの道を歩いていると、自分のあの黒いどこにでもある頑丈な自転車がどこかに隠れている気がして、きょろきょろと辺りを見回した。いくらでも似た自転車は見つかったが、何かが違う。どこかでひょっこり見つかるのではないか、なくなったというのはただの勘違いではないかといった甘い期待は日が経つにつれて断念へと変って行った。

冬が来たので、新しく自転車を買おうという気もなかった。春になり、コロナが来て、初夏に入った。いまこそ自転車に乗るべき季節である。次第に日常に戻りつつあるとはいえ、公共交通機関ではマスクの着用が義務付けられ、いつ事態が急転化するか分からない状態では旅行もしづらい。初夏の天気を楽しむためには自転車に乗り、ポルダー(牧場などがある湿地)なり海岸などに行くのが一番である。

トルコ系かモロッコ系かがやっている中古自転車屋は、そのぶっきらぼうな店の外観に合って、飾りたてない誠実な店員が接客に出て来た。自分の背丈にあうものではこれとこれ、と言われ、その一つを店の前で試乗すると久しぶりに自転車の感覚が蘇って来る。前から来た自転車に乗った人にぶつかりそうになりながら、慌てて自転車から降り、特にそれ以上こだわりもないのだからと買うことに決めた。店の中に入って住所や名前、電話番号を記入していると、店員は自転車の前に屈みこみ、フレームに書かれた番号を読み取り、盗まれた場合はその番号を警察に届け出ろという。「確かに盗まれる可能性がありますからね」と相槌を打つと、店員は自分が店の前に自転車を停めて、店の奥に入り、出てきたら自転車は羽でも生えていたかのようにどこかに行ってしまっていたという話をしてくれた。

「たった数分の間に?」
「数分じゃない。一分ですよ」

新しく自転車を手に入れたのが嬉しくて、天気が良かったのを幸いに早速郊外にサイクリングをした。住んでいるライデン市の北にある湖畔に来たまではよかったが、そこから砂利道を走っていると左のペダルに違和感がある。違和感は次第に高まり、ペダルの動きは明らかにぎくしゃくとしてくる。路傍に自転車を止め、確かめると、左のクランクのねじが緩んでいる。一度ねじを外して、再度手で締めてみたが、手の力では不十分で、数十メートルも行かないうちに、また緩んで来る。汗だくになりながら路傍でねじを爪で回した作業は徒労で、しかしその日はなんとか家まで自転車に乗りながら帰りついた。

翌日自転車屋に行くと、昨日の店員が店の前で若い女性二人組の客の相手をしている。どうやらタイヤの交換について話しているようだ。店員は私を見ると、顔をくしゃっとさせて少し待っているように身振りでいう。じきに、奥から顎髭を蓄えた同僚が出て来て、自転車を中に引っ張り込むと、実は昨日の会計で間違えがあったという。チェーンの鍵の分の代金を10ユーロ分、低く請求してしまったらしい。確か昨日の夕方、気付かずに出なかったが見知らぬ番号から着信があった。店の前で昨日の店員が意味ありげに笑っていたのはそういう理由だったのだ。

修理自体はその場で、髯の店員が馬鹿みたいに力を入れて、筒状の道具を使いながらねじを回して終わった。ただ同じものを取り付けて解決するのかと多少不安になりながら、そのむね聞いてみると、こうしたケースについてはよく分かっているという。

「ちゃんと力をいれて締めないうちのもんがいるから。こうやって本当に限界までねじは締めないといけないんです。そうしたらカスタマーはもう戻ってこない」

一か月後に無料点検にまた来なくてはいけない、大変重要だからというその男と、昨日会計でミスをしてしまってすまないと謝る店員に挨拶をして、家に帰ると、直った自転車を試したくなった。降っていた小雨が止むと、またサイクリングに出かけた。昨日と同じ北にある湖に向けて出かけたが、今日は反対側の岸からである。

岸に沿って進むと、湖の反対側にはポルダーが広がる。この日の一つの目的地はこのポルダーだった。

Boterhuispolder(バターの家のポルダー)という名前のこの湿地の牧場には面白い柄の牛がいるのである。

オランダ語でLakenvelderと呼ばれるこの牛は英語でDutch Beltedといういかした名前が付いている。その名の通り、腰のあたりがベルトのように色が切り替わっているのだ。

この可愛い牛はオランダ語のウィキペディアによると、12世紀に文書による記述があり、1450年ごろに描かれたこの牛の絵があるというが、いかんせん典拠がない。英語版を見ると、なんとこの牛はオーストリアやスイス原産だと書かれている。こっちはソースがあって、それによるとオーストリアやスイスからオランダの貴族がこの牛を連れて帰ったらしい。それ以来、オランダ人はこの牛をあまり外部に分け与えることをしなかったらしい。こっちの記述はDutch Belt Cattle Association of Americaなる組織の人間によって書かれていて、歴史的記述に関する参考文献の名前も挙がっているから、こちらの方が信用できるだろう。

さて、この牛、乳牛として優秀だそうだ。なら間違いなくオランダのチーズの何パーセントかはこの牛から出ているわけだ。しかしこのBoterhuispolderの公式サイトというものがあって、それを見ると、肉としても消費されているらしい。スーパーで流通しているか分からないが、サイトには直売の価格が書いてある。それを見ると、ひき肉でもキロ13.5ユーロと中々する。いや、そうでもないのか。ひき肉二キロ、ソーセージ8本、ハンバーガー8個のセットで50ユーロのものなどは買って試してみるのも一興かもしれない。オランダに限らず、酪農国に来たら、直売で肉を買ってみるのは観光のひとつとして面白い。

この牧場、公式サイトの「今の情報 aktueel」というのを見たら、2020年の5月19日には素敵な内部の写真とともに、なんとゲル(ユルト)に泊れると書いてある。広い草地で一夜を過ごすというのはコロナの時代に合っているともいえる。はたしてどれほどの人が実際にこのサービスを利用したかは不明だが、面白い牧場のアピールの仕方である。

牛から離れて岸を北上すると、行き止まりになった。空は快晴で、暑すぎるということもなく、これ以上望むべくない初夏の天気である。湖の写真を取り、しばらく風景を眺めたあと、また同じポルダーに戻って来た。ジグザグに道があるポルダーを自転車で進んでいくと、出口の辺りで羊の群れが草を食んでいるのに出くわした。

夢中で写真を撮っていると、停めていた自転車が風のせいで倒れてしまった。大きな音が出ると、その音に合わせて、羊たちが一斉にメーと鳴き声を上げた。羊の鳴き声というのは実際に聞くと、気味が悪い。少し人間の声にも似ているようであり、酔っぱらったおじさんのげっぷの音みたいである。羊たちは鳴き声を上げるだけじゃなく、自転車を助け起こした私に対して真っすぐ集団で向かってくる。追い出しにかかっているのだろう。恐怖を感じてそろそろと逃げ出すと、数メートルでついてくるのはやめたもののこちらを見て、威嚇の鳴き声を上げ続けている。

数メートル先の別の群れの前で、性懲りもなく写真を取っていると、一匹の体躯の大きいのが好奇心なのかそれとも向こうの集団がこいつは危険人物だと鳴き声で知らせていたのか、草を食むのを止めて近づいてくる。威嚇しているのか、それともただの好奇心か、判断がつかなかったが、黒光りする蹄に怖れをなして、私は逃げ出してしまった。

羊というのは怖いものだ。思えば日本にいる人で柵なしで羊なり牛なりに接したことのある人は少ないのではないか。大人しい動物だと思っていたが、間近で見ると、何をされるか分からない、集団で襲い掛かられたらこちらに勝ち目はないだろう。

ところでこの羊、種類はなんていうのだろう。まだらであることから英語でmotley sheepなどと検索してもうまくヒットしない。オランダ語でbonte schaapとやると、それらしいのが出た。その名もNederlandse Bonte Schaap。ユトレヒトからライデンのあたりで飼われているというから、今回出合ったのはやはりこの羊たちだろう。でもこいつらは別に品種ではないという。品種じゃないが、このNederlandse Bonte Schaap協会というものがあって、認知の向上を図っているらしい。

黒光りする蹄の羊たちに別れを告げて、更に自転車をこぎ進める。間もなく風車が見えて来て、村に入る。マロニエの木が植わった教会の前を通り過ぎると、ずっとアッシュ並木が続く。アッシュというのはライデンの市街地ではそれほど頻繁に見かける木ではないので物珍しい。

間もなく雲行きが怪しくなる。後ろ(西の方)を振り返ると、灰色の雲が厚く重なりつつある。

私の家のあるライデン行きのバスが反対方向に通っていく。雲行きが悪い以上、一刻も早く家に帰り付きたいならばUターンするのが一番賢い道である。しかしこちら側にはまだ来たことがないので、そのまま前に進む。

ライデンはそこから南西にある。せめて南下しようと右に折れ、しばらく行くと、左の牧草地には大きなまだら模様の牛が四肢を曲げ座り込み、まっすぐ行くと、農場の建物がある敷地で行き止まりになる。引き返し、更に西に曲がるとそこから三十分ほど地獄になった。

折から強風が西から吹いていた。行けども行けども終わらない一本道は向かい風のためにさらに疲労をもたらす。向かっている先には今やはっきりと黒雲が垂れこめている。

雨脚は容赦なくなり、洋服はびしょぬれになる。ポケットの中まで濡れているだろう。必死に田舎道を漕いでいくと、カッパを着こみ、俯きながら自転車をこぐ少年、小さな木の下で雨宿りしている少年、歩きながら顔をしかめ、こちらに気付くと、曖昧に笑顔を浮かべ、うなずく壮年の男らとすれ違う。雨はまだ止まず、水の中を泳いでいるようなものだ。

しかし徐々に、目の前の雲が薄くなっていく。とうとう空から数滴しか落ちてこない場所に出る。前を見ると雲間から太陽が姿を見せ、後ろを見ると、黒雲が風に吹かれて凄い勢いで東の方を攻めている。そう、一時間前までどんなに晴れ渡っていたにせよ、とつぜん激しいにわか雨が降り、またそれが天の気まぐれだったとでもいうように去るのがオランダなのだ。

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