Hubert Robert, Fontaine sur la terrasse d’un palais

訳者まえがき

「今どきレニエを読むとは珍しい」――古書店の老店主にそう言われたことがある。つくづくお世辞のうまい店主である。この詩人を愛する者にとって、過去への愛に勝る美徳はないのだから。

portrait d'Henri de Régnier
Henri de Régnier

アンリ・ド・レニエの作品は、今日ではほとんど読まれておらず、古本屋を除けば、フランスの書店で彼の名を目にすることは滅多にない。日本には窪田般彌という良き理解者がいたために、岩波文庫に彼の小説が1冊だけ収められているが、これは幸運な例外である。彼が後世の読者から見放されるのは必然であった。彼は時代に背を向けて生きた。失われた18世紀こそが、彼の魂の居場所であった。「ああ! あのフランスはすっかり失われてしまった! 革命の刃は人々の頭を切り落としただけではない。世界を2つに切り分けたのだ!1)」――『生きている過去』において、彼は作中人物の口を借りてそう述べている。革命により旧体制はことごとく破壊された。高貴な時代はもはや還らない。貴族が没落し大衆の悪趣味が芸術を支配したこの現代にもし意味があるとすれば、時代を生き延びた前時代の美術や骨董品が我々を昔日の夢に誘うかぎりにおいてのことである。それゆえ、先の言葉を吐いたシャルル・ロオヴローは骨董収集に勤しみ、空想の過去に耽溺する。この人物には、作者の一面が色濃く投影されているように思われる。

1) Henri de Régnier, Le Passé vivant : roman moderne, Mercure de France, 8e éd., 1905, p. 13.

しかし彼の作品が読まれなくなることはないだろう。フランスには「アンリ・ド・レニエを読む会」なるものがあり、今でも活動を続けている。たとえガリマールやガルニエが全集を刊行せず、リーヴル・ド・ポッシュが一冊も単行本を出さなくとも、かつて刊行された書籍が、数奇者たちの手から手へと受け継がれていくだろう。来世紀にもなれば、レニエの名は大衆から完全に忘れ去られてしまうかもしれない。それでも失われた時代を愛する者がいるかぎり、彼が読者を失うことはないだろう。

以下に訳出するのは、レミ・ド・グールモン『仮面の書』に収められたレニエの文学的肖像である。著者が彼の18世紀趣味に言及していないのは、執筆時期から考えれば仕方のないことである。同書が刊行された1896年には、まだヴェルサイユ宮殿を描いた『噴水の都』も、先述の『生きている過去』も著されていなかった。しかし冒頭の描写は、大いに脚色を施しつつも、この詩人の本質をこの上なく的確に、かつ極めて美しく描き出しているように思われる。

アンリ・ド・レニエ

紋章や図像が壁に描かれたイタリアの古い宮殿に、彼は住んでいる。部屋から部屋へと歩きながら、彼は夢想にふける。夕暮れどきには大理石の階段を降り、宮廷の中庭のように舗装された庭に赴き、池と噴水に囲まれ、おのが人生を夢見る。そのころ、黒い白鳥たちは巣を留守にしていることを不安がり、また王のごとく一羽佇む孔雀は、黄金色に染まる夕暮れの失われゆく驕傲を、壮麗に飲むかのように見つめている。ド・レニエ氏は憂鬱かつ豪奢な詩人である。彼の詩でとりわけ頻繁に炸裂する2つの語は、「金or」と「死mort」である。いくつかの詩においては、秋を思わせ王の品格を帯びるこの脚韻が、読む者を怯えさせるほど繰り返される。最近の作品をまとめた詩集を見ると、このような脚韻を持つ詩句がおそらくは50行以上ある。金色の鳥、金色の白鳥、金色の水盤、金色の花、そして死んだ湖、死する陽光、死んだ夢、死んだ秋。極めて興味深く示唆的な強迫観念である。それは語彙の貧しさに由来するものではなく、むしろその逆である。その由来は特別豊かな色彩への、打ち明けられた愛にある。日没の光景が呈するような悲しい豊かさ、夜闇に消えゆく豊かさを有する色彩への、打ち明けられた愛に。

彼が自らの抱いた印象や、夢の色彩を描き出そうとするとき、言葉が彼に押し寄せる。言葉はまた、彼を定義しようとする人にも押し寄せる。はじめにやってくるのは既に先ほど書いた言葉であるが、それは抑えがたく蘇る、豊かさという言葉である。ド・レニエ氏は何といっても豊かな詩人――イマージュに富む詩人である! 彼はイマージュをトランク一杯に、地下貯蔵庫一杯に、地下室一杯に蓄えており、それを奴隷の行列が豪奢な籠に盛り、絶えず彼のもとへと運んでくる。彼は、尊大な態度で、輝く大理石の階段にその籠の中身を打ち撒く。すると玉虫色の滝が飛沫をあげつつ流れてゆき、やがては穏やかになり、照り輝く池や湖を形づくる。必ずしもすべてのイマージュが新しいわけではない。ヴェルハーレン氏であれば、より的確でより美しい既存の隠喩よりは、たとえぎこちなく形をなさないものであっても、自ら作り出した隠喩を好む。ド・レニエ氏は既存の隠喩を軽視しない。ただし彼は既存の隠喩を再加工し、縁取りを変えたり、新たな隣接関係や未だ知られぬ意味作用を与えたりすることで、それをわがものとする。もしこのように手直しを施されたイマージュのうちに清新な素材があれば、そのような詩が与えるであろう印象は、決して独創性を欠くものではない。このように制作すれば、奇怪や晦渋に陥ることが避けられる。読者は唐突にダイダロスの迷宮のような森に投げ入れられはしない。歩むべき道はすぐに見つかり、珍しい花々を摘む喜びは、慣れ親しんだ花々を摘む喜びにより倍増する。

Le temps triste a fleuri ses heures en fleurs mortes,
L’An qui passe a jauni ses jours en feuilles sèches.
L’Aube pâle s’est vue à des eaux mornes
Et les faces du soir ont saigné sous les flèches
Du vent mystérieux qui rit et qui sanglote.

悲しい時間は刻一刻を枯花として咲かせ、
過ぎゆく〈年〉は日々を枯葉として黄色に染めた。
青白い〈曙〉はどんよりとした湖沼にその姿を映し、
笑い咽び泣く秘密の風の
矢を受けた夕暮れの顔が血を流した。

このような詩は確かに品格を備えている。

ド・レニエ氏は何でも言いたいことを韻文で言うことができる。彼の精妙さは計り知れない。彼はいわく言いがたい夢の陰影や、容易には感じられないものの現れ、つかの間の情景を記録する。手袋をはめず大理石のテーブルについた、いささかこわばった手、風に吹かれ揺れたのち落下する果実、打ち捨てられた池、これらのような取るに足らないもので彼は十分であり、詩はそこから完全かつ純粋なかたちで生じる。彼が紡ぐ詩句は喚起力に富む。たった数音節で、彼はおのれが見たものを我々に提示する。

Je sais de tristes eaux en qui meurent les soirs ;
Des fleurs que nul n’y cueille y tombent une à une...

私は知っている、夕暮れがその中で死ぬところの池を。
何人も摘みに訪れなかったその場所で、花々ははらりはらりと散ってゆく……

やはりヴェルハーレン氏とは異なり、彼は自らの言語の絶対的な支配者である。彼が詩の執筆に費やした時間が長かろうと短かろうと、彼の作品にはいかなる苦労の跡も残らない。夜の栄光の中へと消えゆく金色の馬具を身に着けた白馬のようなこれらの美しい詩節が気高くまっすぐに駆けるのを追うとき、我々は驚かずにはいられず、ましてや感嘆せずにはいられない。

ド・レニエ氏の詩は豊かで繊細であるが、決して単に抒情的なだけではない。彼はひとつの観念を、隠喩で飾られた輪の中に閉じ込める。たとえその観念が曖昧で漠然としていようとも、首飾りに強度を与えるには十分である。真珠は一本の糸で括られているが、ときに糸が目に見えないとしても、必ずその糸は丈夫である。ちょうど以下の詩句のように。

L’Aube fut si pâle hier
Sur les doux prés et sur les prêles,
Qu’au matin clair
Un enfant vint parmi les herbes.
Penchant sur elles
Ses mains pures qui y cueillaient des asphodèles.

昨日、牧場と砥草を照らす
〈曙〉がとても青白かったので、
明るい朝、
子供がひとり草地に来て、
その無垢な手で
蔓穂蘭を摘んでいた。

Midi fut lourd d’orage et morne de soleil
Au jardin mort de gloire en son sommeil
Léthargique de fleurs et d’arbres,
L’eau était dure à l’œil comme du marbre,
Le marbre tiède et clair comme de l’eau,
Et l’enfant qui vint était beau,
Vétu de pourpre et lauré d’or,
Et longtemps on voyait de tige en tige encor,
Une à une, saigner les pivoines leur sang
De pétales au passage du bel Enfant.

昼はにわか雨が重く降り、陽光は陰鬱だった。
花々や木々が昏睡する、
眠りこけた栄光の死した庭で、
水は大理石のように固く見え、
大理石は水のように生暖かく澄んでいた。
そこに来た子供は美しく、
深紅の衣に身を包み、金の月桂冠を被っていた。
そして長いこと茎から茎へと見ていくと、
その美しい〈子供〉が通り過ぎるにつれ、
ひとつまたひとつと、牡丹が血を流すのが見えた。

L’Enfant qui vint ce soir était nu,
Il cueillait des roses dans l’ombre,
Il sanglotait d’être venu,
Il reculait devant son ombre,
C’est en lui nu
Que mon Destin s’est reconnu.

今晩来た〈子供〉は一糸纏わず、
日陰で薔薇を摘んでいた。
彼は来なければよかったと泣きじゃくり、
おのれの影にたじろいでいた。
この裸の子供に
私は自らの〈運命〉を見た。

以上は、より長い詩の中のひとつの挿話にすぎず、またその詩も詩集の一断片にすぎない。この小さな三連画には複数の意味があり、本来の位置に据えるのと単独で見るのとでは、語られる内容が異なる。単独では一個人の運命像であり、本来の位置では人生の一般像である。またそこには、熟練の詩人により作られた、真に完璧な自由詩の一例をも見ることができよう。

底本:Remy de Gourmont, Le Livre des masques : portraits symbolistes, Mercure de France, 3e éd., 1896, pp. 41-46.


目次

III. アンリ・ド・レニエ
VI. アルベール・サマン
X. ヴィリエ・ド・リラダン
XXVIII. ロベール・ド・モンテスキュー
XXX. ポール・ヴェルレーヌ

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