船出を祝して――マラルメ「挨拶」

遂に本誌『リナシメント』は船出を迎えました。これまで大人になるべく奮闘してきた我々は、ようやく一人前となり、今、茫漠たるネットの大海へと漕ぎ出すのです。

さあ、進水式を執り行いましょう――荒れ狂う波に立ち向かうこの船の無事を祈って、また、現代のルネサンスという難業を我々が成し遂げられるよう願って。

厳かな式典には、荘重な祝いの言葉が不可欠です。祝辞に代えて、フランスで最も優れた14行詩のひとつを捧げましょう。

マラルメ「挨拶Salut」

何もない、この泡、穢れなき詩句、
指し示すのはただ杯のみ。
あれほど遠くで溺れているのは
逆さになったセイレーンの大群。

さあ行こう、おお様々なる我が
友よ、私は船尾におりますので、
皆様は華々しい舳先へどうぞ、
嵐の海も冬の海も引き裂くあの舳先へ。

美しい陶酔に導かれるがままに、
船の揺れさえ恐れずに、
私は立ったまま杯を掲げ、

孤独、暗礁、星、
何にでも捧げよう、
我らの帆の白き憂慮に値したならば。

Rien, cette écume, vierge vers
À ne désigner que la coupe;
Telle loin se noie une troupe
De sirènes mainte à l'envers.

Nous naviguons, Ô mes divers
Amis, moi déjà sur la poupe
Vous l'avant fastueux qui coupe
Le flot de foudre et d'hivers;

Une ivresse belle m'engage
Sans craindre même son tangage
De porter debout ce salut

Solitude, récif, étoile
À n'importe ce qui valut
Le blanc souci de notre toile.
Stéphane Mallarmé, Salut, dans Poésies, Bertrand Marchal (dir.), Paris, Gallimard, coll. « Poésie/Gallimard », 1992, p. 3.

詩人ステファヌ・マラルメが、『プリュム』誌主催の晩餐会にて、乾杯の挨拶代わりに詠んだ作品です。スタインメッツが著した『マラルメ伝』によれば、この宴には、詩人ヴェルレーヌ、小説家ゾラ、彫刻家ロダンといった、錚々たる面々が出席していたようです。

「無rien」といういかにもマラルメらしい一語でこの詩は始まります。驚くべき語の選択です。これから挨拶をするはずなのに、語るべきことは「何もないrien」と言うのですから。同胞に囲まれ感極まったためか、それとも緊張のあまり頭が真っ白になったのか、あるいは、志を同じくする芸術家が揃う素晴らしいその席には、いかなる散文もふさわしくないというのか――いずれにせよ、詩人は虚無と対峙しています。そんななか、ふと手元のシャンパンを見ると、グラスの底から泡が立ち昇っています。空っぽの泡が生まれる様子は、まるで無から何かが生じてくるかのようです。すると、言葉を失った詩人のうちにも、同様に泡のような詩句がぽつぽつと湧き出てきます。ただしこの生まれたての詩句は、泡の中が空であるのと同様、中身のない、空虚で無意味なものです。無垢で純粋な(« vierge »)それらの詩句は杯へと向かい、ただ杯だけを指示対象とする詩篇を形成しはじめます。しかしそのグラスverreもまた、詩句vers(verreと同音)と同様、「穢れなきvierge」、純粋で透明なものです。透き通ったそのグラスは、まるで質料なき形相であるかのように、あるいは無の結晶であるかのように、光を曲げず遮らず、通り抜けさせているのでしょう。こうして、無が無の周りを取り囲み、ただ虚無だけからなる詩が紡がれていきます。

グラスの水面に立つ泡沫は、まるでセイレーンが溺れているかのようです。彼女たちの歌は、たとえそれを聞くと死ぬと分かっていたとしても、聞かずにはいられない魔力を秘めたものです。しかし、彼女たちの歌を聞こうにも、溺れる彼女たちが水中で発する息は空しくも泡となり、その声は聞こえてきません。

ならば会いに行こう――詩人は仲間たちに呼びかけます。この世の彼方、現実を超え出たところに住まうセイレーンたちに会いに行こうと。ただし謙虚な詩人は、豪華に飾り立てられた船首を友人たちに譲り、自らは船尾に腰掛けます。このあたりは社交人マラルメらしい態度です。

そして船は、ある日、激しい荒波に襲われます。ところが、揺れる船上で、詩人はある甘美な陶酔――きっとシャンパンの香りがもたらしたものでしょう――に誘われ、海へ振り落とされる危険も顧みず、起立し杯を掲げます。

嵐に襲われることもあれば、凪の海に船が取り残されることも、最悪船が座礁することもあるかもしれません。あるいは、幸いにも船の行先を星が知らせてくれることもあるでしょう。苦難も幸運も分け隔てず、航海で遭遇するすべてにこの杯を捧げよう――と詩人は言います――それらを経た末に「我らの帆の白き憂慮」が解消されるとすれば。この表現が意味するのは、白紙のページが呼び起こす不安です。白い帆は、何も書かれていない紙のイマージュを喚起しますが、詩人にとって、文字の書かれていない紙は、行き詰まった詩作の象徴です。手つかずのノートは詩人に書くことを要求しますが、彼はその要求に応じられないのです。もしそこに書き込むべき選りすぐりの詩句に出会えるならば、その過程で被る困難や、筆を絶ちかねないほどの絶望、そして一縷の希望――それらすべてを、宿命の詩句に出会うために必要だったものとして肯定し、まるごと祝福しようと詩人は述べます。ここにはもはや、船首を譲る健気な社交人の姿はありません。彼は詩作の厳しい航程に挑む決意を表明することで、気高い詩人としての姿を露わにし、そして芸術家たちの筆頭として、船長として、同志たちに出帆を呼び掛けているのです。

当時の『プリュム』誌が伝えるところによると、この韻文による挨拶は大好評を博し、喝采を浴びたそうです。無に等しいものをめぐる夢想が高らかな宣言に発展する、見事な構成を持つこの詩が、あたかも即興で詠まれるかのように朗誦されたのですから、その反応も当然でしょう。

おわりに

幸いにも我々は、マラルメのように絶対的な〈詩〉を追求しているわけではありませんから、彼ほど深刻な「白き憂慮」に悩まされることはありません。しかしながら、我々の視界の彼方、水平線の向こうでは、様々な苦難が待ち受けていることでしょう。数多くの困難や労苦を乗り越えた末に、それまでの苦しみがすべて報われるような成功に、果たして我々は辿り着けるのでしょうか――きっと我々に限らず、船乗りは皆、そんな不安を抱えながらも、広大な海の果てにあるかもしれないわずかな希望に賭け、海に漕ぎ出すのでしょう。

我々は、水平線の彼方に、あるかなしかの夢を追うのです。

『リナシメント』の船出を祝し、虚無の杯を掲げましょう。
私も船尾に座り、航海を共にさせていただきます。

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