久々にレコードを聴いて心が揺さぶられる思いをしました。
曲目は「ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」で、指揮がレナード・バーンスタイン、バイオリンがアイザック・スターンです。元々このヴァイオリン協奏曲が好きなのですが、ヤッシャ・ハイフェッツの演奏をCDからスマホに取り込んで聴いていました。

田舎の自室で、8年前に買ったソファに身を投げ出し、レコードプレーヤーに針を落としたのですが、あっという間に演奏に吸い込まれて一瞬のうちにA面が終わっていました。「なんでこんなにも感動したんだろう」そう不思議に思い、じっくり考えてみました。

レコードの持つ魔術

技術的な問題で言えばこうです。CDでは20kHz以上の高い音が再現できない。ですがそんな物は今となっては関係ありません。流行りのハイレゾやSACDなどレコード並の情報量を持った音源が多く存在して、機材も最新になり、ノイズとは無縁の世界になっているのです。

ですが、なぜレコード1枚でここまで感動したのか、それはレコードだけが持つ魔術と、現代との対比から生じるものだと言えます。現代はブロードバンドが完全に普及して、その言葉さえも死後になりつつあります。
スマートフォンでもギガバイトの通信ができて、数年もすれば5Gという更に早い規格さえ一般化します。媒体の容量も増え続け、一昔前のパソコンよりも大容量のフラッシュメモリが512GBなど信じられないほどの高性能になっています。ネット回線も早いので、音楽を聞くのはApple MusicやSpotifyなんて人もいるんじゃないでしょうか。

コンテンツの浪費

しかし唯一失われているものがあります。それはコンテンツが過剰に浪費されているということです。
サンドイッチを一口齧って捨てているようなものです。いやショートケーキの苺の先を齧って捨てる、それよりも酷い事が起こっています。今どきは月額1,000円払えば、6000万曲を広告なしでストリーミングで即時聞くことができます。
これがコンテンツの浪費に直結しているのです。

例えば昔であれば映画館に行って1500円払って2時間見た作品、今はAmazon会員特典のプライムビデオであれば10,000件以上の映画やドラマ、アニメなど映像作品を無料で見ることができます。
どんなに酷い映画でも1500円払ったなら途中で席を立つひとは殆どいませんでしたが、今ではクリックひとつで作品を再生できるので、序盤5分がつまらないだけで「戻る」ボタンを押してしまいます。
早送りや飛ばして見ることさえあります。それだけでなく料理しているときの片手間で再生したり、掃除中に流したり、映画と対峙することなくコンテンツだけをサウンドトラック代わりに浪費しているのです。

本当はしっかり対峙すれば感動した作品であっても、「イマイチだった」という感想しか生まれずに☆1をクリックして終わってしまうのです。
更にはインターネットの普及によって過激なコンテンツが増え続け、グロテスクな描写や過激なシーン、暴力的なアクション映画、車をぶつける芸能番組など低俗を極める一方。白黒映画はもとより、オペラや劇など描写が優しい映像作品は今どき流行ることはありません。派手な銃撃戦でヘリが墜落して爆発しないと観客は物足りないのです。
私は1960年の「スパルタカス」が大好きで、見ると感動のあまり泣いてしまいます。CGが全くない紙芝居のようなクオリティで映像も画質も悪いですが、しっかり見ると本当に良い作品なのです。

音楽にも同じ事が言えます。Apple Musicやプライムミュージックでは6000万曲以上を聞くことができますが、クリックして10秒ほど聴いてイマイチだったら次のアルバムを再生するのです。”人気の曲”といったように、一つの曲だけを聞くのも一般的です。例えばグスターヴ・ホルストであれば組曲惑星の木星、ヴェルディのレクイエム怒りの日など本来であれば全曲通して完成する作品の有名な一部だけを切り取って聴いてしまうほどです。

登録されているプレイリストというのもひどく「夜に体のリズムを整えるクラシック」など、例えば「第九」の後に運命が来て子犬のワルツが流れるような入門クラシックのプレイリストなども音楽を真剣に聞く環境としては絶望的です。もっと酷いとユーチューブでクラシックを聴いて途中で広告が大音量で入るなんてのは以ての外です。

とにかく1曲をじっくり対峙するというのは、現代では殆どないのです。

※写真は1968年に収録し、1980年代に発売したレコードに罫線が残っているもの。これは遺品整理のレコードを引き取ったものですが、80年代に先人たちが見ていた光景が鮮明に脳裏に浮かびます。

 

余韻と”終”こそが音楽で大切

バイオリン協奏曲の演奏がピークを迎えて最後の一小節に向かってゆきます、そして静かに演奏が終わります。レコードでは最期の曲が終わると、プチプチという小さなノイズが数秒間続き、そこからプッと針が上がる音で終わりを告げて、その後は静寂に包まれます。

この余韻と”終”こそが感動に繋がる理由の一つです。パソコンやスマホでの再生は優れていて、単純な音質で言ったらハイレゾの方が上かもしれません。しかしどれも終わりの余韻が無いのです。
何十曲、何百曲と続くプレイリストになって永遠と演奏が続けられます。リピートしている人も多いでしょう。

いくら曲が素晴らしくても、連続しすぎるとコーヒーが無限に注がれるようなものです。しかもコーヒーカップの下にヒーターがあって温め続けられる感じです。淹れたコーヒーは冷めなければならないし、美味しくても1,2杯飲めば十分なものです。

香水やワインであっても、華やかなトップノートが永遠と続けばいい訳ではありません。始まりから徐々に広がり、香りがピークを迎えて、そこから百合の花のように枯れていかなければいけないのです。

じゃあiTunesで4曲に1回ずつ止まればいいか?と問われればそれも違います。CDプレーヤーは曲の最後で止まるので、レコードに近いですが、iTunesは無機質すぎるのです。
レコードは放置すればホコリでノイズがひどくなるので定期的に手入れをしますが、これもまた「よし、これを聞こう」という意識付けとして意味をなしているのかもしれません。
CDプレーヤーであっても、小さな120mmのジャケットからディスクを取り出し、トレーに乗せて「Play」を押すので、iTunesと比べればレコードに寄っていると言えます。ただ私はレコードの大きなケースを両手で握り、ジャケットの絵画や写真をじっくり見て、ライナーノーツを読みながら聞くのが好きです。

総合的な環境が大切

例えば緑の見える森の中で、夕方の月を見ながらレコードを掛けてA面だけ聴く。
一方で満員電車で立ちながらイヤホンで聞く曲。どちらも同じ曲でも意味が違います。
コーヒーもそうです。忙しい中でドトールで飲むものと、田舎でレコードを聴きながらサイフォンで落とし、拘りのアンティークミントンで飲むコーヒーでは全く別物と言えます。

映像も音楽も過剰に浪費されすぎているのです。誰もが田舎の森の中でゆっくり過ごすというのは難しいので、せめて音楽や映像作品を見るときはじっくりと対峙してみて欲しいものです。少しつまらないからといって飛ばしたりせず。
そしてたまには1500円出して文庫本を買ったり、手に触れれるものでじっくりと時間を掛けて向き合ってみて下さい。

そうすることによって、今まで無料に近い価値で配信されていた作品が、全く別の一面を見せてくれるはずです。

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1989年 静岡市出身。主な執筆分野:ライフスタイル、旅行、料理、お酒。