編集長が手紙とSNSの違いについて書いた記事は、実に興味深い。

しかし私は残念ながら、手紙を殆ど書いたことのない世代である。

一方メールについては大変馴染み深く、中学生の頃にはやたらとメールアドレスが変わる友人達をその都度アドレス帳に登録しながら、その背景にどんな面白い恋愛沙汰があったのか想像したものだ。

メールを使っている間、私たちはその断片的に送られてくる文章の「間」にどんな出来事があり、感情があり、意味があるのかを想像していたものである。

今回はこの「間(ま)」についての話である。

間がもたらす効果

「間」というのはじれったいものであった。

電車を待つ時間、会いたい人と次会うまでの日々、旅行の前日…。間(ま)があるせいでモヤモヤとした経験は、山ほどあるものだ。

しかし今考えると、間というものには不思議な趣があった。

18歳の時だっただろうか、フランスとドイツの国境近く、ケールという街の駅でひたすら鉄道を待っていた。小麦畑に囲まれた駅で、何一つみるものもない寂しい無人駅だった。

その頃はまだスマートフォンさえあれどSNSは外国人がFacebookを使っているという程度。何より海外ではwifiを拾わない限りインターネットが使えない時代であった。

本当に鉄道が来るのかもわからない中、12月の寒々とした景色を眺めていると、30分ほどしてついに遠くから鉄道がやってきた。

そしてドアが開くと、鉄道の中は暖かく、全く予想もしていなかったことに、あの懐かしい石油ストーブのにおいがしたのである。何もない中で何もせずに過ごした30分で、私の感覚は自然と研ぎ澄まされていたようだ。鉄道がゆっくり止まったときの音、におい、景色…全てを鮮明に覚えているのである。

しかしこれが現代だったら、同じように感動しただろうか?

インターネットやSNS、アプリケーションで時間を潰しているうちに、あっというまに30分が過ぎただろう。鉄道が到着したときには、短い動画を撮って、それを投稿しながら乗り込んだかもしれない。

じれったい間がなくなった代わりに、感動が浅くなっていくようだ。

テクノロジーが進むと、間がなくなっていく

「間」というものは、まるで空いた土地のようだ。

文明が発展して都市が広がっていけばいくほど消失し、飲み込まれていく何もない土地。同じように「間」もテクノロジーが進歩すればするほど情報で埋められていき、なくなっていく。

バルコニーの椅子に腰掛け、コーヒーカップを手に取ったとき、私たちには間があった。

無限に広がる景色の中に何かを見つけては、それについて考えたり、疑問に思ったりしたものである。

しかし今では、すかさずスマートフォンを手に取ってしまう。すると莫大な量の情報が脳に直接飛び込んでくる。

失われていく「間」は時間だけではない。

最近、小学生の頃私が熱中していたRPGゲームが、20年以上の時を経てリメイクされるというので、その体験版で遊んでみた。

めざましく進歩したグラフィック、より複雑になったシステムなど実に新鮮で、その変容ぶりには感動したものだ。

しかし1時間の体験版が終わった頃には、やはりそこには「間」がなくなったことに気がついた。

20年以上前のプレイステーションの原作は、主人公がしゃべらずセリフは文字で表示される。グラフィックは一枚の絵画のようで、その中を無理やりポリゴンのキャラクターを歩かせるような仕組みであった。設定は荒削りで、矛盾もあり、情報も少な過ぎてプレイヤーはいきなりファンタジーの世界に投げ出されたような気分であった。

しかしそれはゲームの世界にたくさんの「間」が存在するということでもあった。

そのおかげで実に色々なことを想像したものだ。ダンジョンを歩いている間、主人公達はどんな会話をしているのだろう? そもそもどんな声なんだろう…?

そして頭の中でそれをリアルに映像化してみては、自分の中の主人公や物語を勝手に描いていたものなのだ。

今では主人公はいつでも喋ってくれるし、歩いている間もセリフは満載、顔も毛穴一つまでしっかり見ることができる。素晴らしい進歩だが、その代わりに想像する余地がなくなってしまった。

リアルになるということは小説の映画化と一緒で、答えを一つに絞ってしまうことでもある。

人それぞれの解釈というものを切り捨て、ある人が考えた答えに従うということだ。

もちろんゲームなら、制作部がオリジナルであるので、その人たちの答えに従うのは当然なのかもしれない。

しかし一方で1人1人の想像の中に存在した無数のバリエーションが、テクノロジーの進歩で失われてしまうことはやはり少し寂しくもあるのである。

想像力を維持しよう

現代に生きる者として、新しいものを根っから否定することはあまりにも惨めだ。

新しいものは片っ端から試して、どれが自分に合うか、必要かを見極める方が明らかに人間を進歩させてくれる。

しかし想像する時間、自分で考える時間、その機会がどんどん減っていることは知っておこう。

想像力がなくなると人は新しいものを生み出すことができなくなる。

そして何よりも想像力がなくなってしまえば、人は自分の言葉が相手をどんな気持ちにさせるか、自分の行動がどんな結果に繋がるかを予想できなくなってしまうのだから。

まだ映像作品を見たことのない小説を読んでその世界を想像するのも良い。オペラのレコードを聴きながらオーケストラと舞台の様子を想像してみるのもよい。

ウイスキーを飲みながら作り手の様子を思い浮かべてみるのもいいし、西洋絵画を見てそのモデルになった風景や人物を頭の中で4K映像化するのも面白い。

オンボロのマセラティに乗りながら、発売当時その車があたかも画期的なスーパーカーであるかのように売り出されていた様子を思い浮かべればうっかりにやけてしまうだろう。

こういったちょっとした想像力が、私たちとクリエイティブな感覚を繋ぎとめてくれるはずだ。

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後天的イタリア人。 メンズファッション、車、オペラ等について執筆する兼業ライターです。 本業は田舎の洋服店。