懐古趣味が高じて買ってしまった、年代物のフロックコートがある。購入先の店主によれば、1930年代に英国で仕立てられたものらしい。フロックコート自体は19世紀の衣服であるが、なるほど確かにこの一着は、典型的な30年代の仕立てである。肩は着用者の体に沿い、自然な輪郭線を描く。肩先が実際の肩位置より外側にある一方、ウエストは適度に絞られており、砂時計型のシルエットを作り出している。胸部には絶妙なゆとりがあり、豊かなドレープを生み出している。艶やかな陰影を描き出す羅紗地は、今日ではまずみられない、重厚な代物である。内側にタグ等は一切縫い付けられておらず、おそらくは誂えものと思われる。

Giovanni Boldini, Robert de Montesquiou.

ヴィクトリア朝時代に上流階級に広まったフロックコートは、19世紀の間、昼間の正装として着用されていた。当時の写真や絵画を見ると、このコートを着た人々の姿が見受けられる。とりわけ肖像画や肖像写真においては、後世に残すにふさわしい装いとして、フロックコートが選ばれていることが多い。ロベール・ド・モンテスキュー伯爵が、ボルディーニの手になるあの有名な肖像において羽織っているのも、このコートである。しかしフロックコートは、早くも19世紀のうちからモーニングコートに地位を脅かされ、20世紀に入ると次第に姿を消していった。1936年には、エドワード8世、のちのウィンザー公が、王室の正装としてのフロックコートを廃止した。この頃には、フロックコートはもはや過去の遺物とみなされ、ごく限られた場面でしか着られていなかったはずである。私の手元にある品も、着用の痕跡は少ない。懇意にしているフィッターいわく、数回しか着用されていないのではないかとのことである。

今やフロックコートは、博物館に収めるべき代物である。この無用の長物を眺めるにつけ、見事な仕立てに惚れ惚れする一方で、私はおのれの浅はかさに辟易する。この21世紀にフロックコートを着るとなれば、時代錯誤は避けられない。これを着て現代の街中を歩こうものなら、悪目立ちは必至である。

ボードレールによれば、アナクロニスムとは、現代の美から目を背ける怠惰の所産である。『現代生活の画家』において、彼は、新古典主義からアカデミスムの系譜に属する同時代の画家たちを批判した。当時の主流であったこの画家たちにとって、物語画が扱う「物語histoire」とは、「歴史histoire」にほかならなかった。彼らは、必ずしも同時代の主題を扱わなかったわけではないが、少なくとも美術学校では歴史画を描くための教育を受け、ローマ賞コンクールでは歴史画を描き、その後も歴史画を絵画ジャンルの頂点に位置づける価値観のもとで創作活動を行っていた。のちにマネが描いたような、街場で繰り広げられる卑俗な物語には、彼らは目もくれなかった。とはいえこの画家たちが歴史画を描くにあたり利用したのは、同時代人のモデルである。歴史画家たちは、卓越した技術をもって、写真のような正確さで人体を画布に写し取り、その姿に古代の衣装を纏わせた。そのためか、彼らが描く絵には、まるで活人画のような不自然さが感じられる。

Paul Delaroche, L’Hémicycle du Palais des Beaux-Arts.

一方で、『悪の華』の詩人が称揚する画家コンスタンタン・ギースは、同時代の人々を主題に据え、その時代特有の美を探求した。ボードレールは、ギースが追いかけたその美を「現代性」と名づけ、次のように述べる。

現代性とは、移ろいゆくもの、つかの間のもの、偶然のものであり、これが芸術の半分をなす。もう半分は永遠のもの、不変のものである。古代の画家たちには、それぞれの現代性があった。今に残る過去の時代の美しい肖像の大半は、それぞれが描かれた時代の衣装を着せられている。それらの肖像は完璧に調和している。なぜなら、衣装や髪型、さらには身振り、まなざし、そして微笑みまでもが(各時代には、それぞれの佇まい・まなざし・微笑みがある)、完璧な溌溂さを備えたひとつの総体を形づくっているからである。

Charles Baudelaire, Le Peintre de la vie moderne, dans Œuvres complètes, Claude Pichois (dir.), 2 t., Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1975 et 1976, t. II, p. 695.
Constantin Guys, Au foyer du théâtre.

芸術作品とは、つかの間のものと永遠なるものの混淆である。各時代には、それぞれに特有のディテールがあり、それらの細部は、同じ時代の中で響き合い、ひとつの調和を形づくる。それゆえ、過去のある時代の絵画に描かれた人物を、現代において、同時代のモデルに基づき模倣しようとすれば、必ずどこかで齟齬が生じ、美は破綻する。服装に関しても同様である。この21世紀にフロックコートを着て現代の都市を歩いたとすれば、滑稽に陥るのは必然である。現代に馴染まない衣服は、着る者や周囲の風景と不調和をきたし、仮装のような不自然さを呈するだろう。次の一節は、古着を愛する者が肝に銘じるべき至言である。

古代のうちに、純粋芸術や論理、一般的方法以外のものを探し求める者は不幸である! 古代にあまりに深くのめり込みすぎたために、その人は現在の記憶を失ってしまう。

Ibid., p. 696.

確かに過去は美しい。しかし過去に耽溺するあまり、現在を見失えば、同時代の美が見えなくなってしまう。人間は、生を受けた時代から逃れられない。過去のものは過去のものとして、批評的距離を保ちつつ検討するのが、健全な態度である。

もっとも、ある種の奇矯な人間は、同じこの警句に、むしろ抗しがたい誘惑を読み取るだろう。先の一文が正しいとすれば、我々は過去に浸りきることで、現在を忘れ、時代の束縛から解き放たれるともいえる。過去の時代に憧憬を抱く者にとって、これほど魅力的なことはない。

アンリ・ド・レニエは、時代錯誤がもたらすこのような愉悦を知り抜いていた。彼の小説『生きている過去』には、過去と現在が交錯する瞬間が随所に描かれている。その主要な契機のひとつとして用いられているのが、仮装である。無論レニエも、過去の単なる再現が見苦しいことは重々承知している。チェスキーニ伯爵の仮装舞踏会を眺める18世紀愛好家ロオヴローに、彼は次のように言わしめる。

もし彼らが一瞬でも立ち止まったら――と彼は思った――、蝋人形館で抱くような不気味な印象を僕らは覚えるだろう。あんな昔の衣装は、釘に掛けてあるか手に取っているときにしか美しくないし、生き生きともしていない。昔の衣装が何かを喚起するのは、そんなときだけさ。

Henri de Régnier, Le Passé vivant : roman moderne, Mercure de France, 8e éd., 1905, p. 111.

George Barbier, Costume de Casanova.
18世紀の衣装を収集するロオヴローは、過去の衣服を愛でる仕方をよくわきまえている。前時代の古着は、それが仕立てられた時代の夢想へと我々を誘うが、いざその古着を着てみると、時代錯誤が目立ってしまう。不自然なその恰好は、過去と現在の越えがたい断絶を露呈させ、懐古趣味者を失望させるだろう。ボードレールが指摘していたアナクロニスムの陥穽を、レニエはよく理解していた。

しかし彼は、このような過去と現在の軋轢が、ときに克服されうることをも知っていた。ロオヴローの友人にして小説の主人公であるジャン・ド・フラノワは、仮装舞踏会に赴くにあたり、カサノヴァに変装する。ところが彼は口髭を蓄えたままであった。カサノヴァは髭を生やしてなどいない。ロオヴローは彼に髭を剃らせる。口髭を剃った彼の容貌は、18世紀の色事師そのものであった。

「ばっちりだ! 君は150年前に生きるようにできているんだ。どうしてもっと早くそんな要らないものを取っ払おうと思わなかったんだい? ほらまあ見てごらんよ!」

ロオヴローは彼を鏡の方へ押しやった。ジャンは自分の姿をしげしげと見つめた。まるで他人になったかのような、あるいは他人が自分になったかのような気がした。

Ibid., p. 93.

偶然の一致や奇跡的な符合により、過去と現在がぴたりと噛み合うことがある。そのような稀有な瞬間において、我々は時代の隔絶を乗り越え、真に過去との合一を果たす。もっとも、このような別の時代との邂逅には、危険が付きまとう。この小説においても、自分のなかに過去の人々を見出したジャンは、過去に操られるかのようにして、不幸な運命をたどることとなる。死に急ぐのでなければ、我々は、ロオヴローのように、趣味的に過去を愛でるにとどめておくのが望ましい。

前世紀、異国の地で、他人の体に合わせて仕立てられた服が、寸分の狂いもなく自分の身体に合う感覚――これはまさに時代の隔絶を忘れさせるものである。時折私は、独り、室内でこのフロックコートを羽織ってみる。鏡は、1930年代のイギリス人とは似ても似つかない私の姿を映し出し、私を現実へと送り返す。先の小説から、次の一節が思い出される。

彼はこのように室内で仮装に興じるのが好きだった。それにより、自分が帰化した世紀に生きる幻想に浸れるからである。

Ibid., p. 43.

仮装の浅ましさを知るロオヴローもまた、自宅では18世紀の装いを楽しんでいた。生まれる時代を間違えた者の、いじらしい慰みである。自らと同じ楽しみに耽るこの人物を思うにつけ、私は苦笑を禁じえない。

 

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