物を知るということはまずその名前を知ることです。身近によくあっても、名前を知らない物がよくあるのではないでしょうか。そういう時、どうしますか。例えば、自分の庭に見知らぬ花が咲いていたら、放っておきますか。森鴎外なら植物園に行くのです。

 毎年草花の市が立つと、木村は温室に入れずに育てられるやうな草を選んで、買つて来て植ゑてゐた。そのうち市 では、一年増に西洋種の花が多くなって、今年は殆皆西洋種になつてしまつた。毬のやうな花の咲く天竺牡丹を買ほうと思つても、花弁(はなびら)の長い、平たい花の咲くダアリアしか無い。石竹を買ほうと思つて見れば、カアネエシヨンが並べてある。花隠元を誂えて置いて取りに往くと、スヰイト・ピイをくれる。とうとう木村の庭でも、黄いろいダアリアを始として、いろんな西洋花が咲くやうになつた。
 木村は印東(いんどう)の西洋草花なんぞを買つて来て調べてゐたが、中には種性(すじょう)の知れないものが出来て来た。そこで植物園に往つて、例の田楽豆腐のやうな札に書いてある名を見て来ようと思ひ立つたのである。


森鴎外「田楽豆腐」

もちろん、小説の中の木村という男の話で、鴎外自身の話ではないですが、こういう発想があったということ自体、森鴎外自身に分野を問わず知を集積しようという、18世紀の思想家ディドロやヴォルテールなどの百科全書派のような側面があったということを示していはしないでしょうか。

しかし人は怠惰なもので、少し知らない植物が庭に咲いていたからといって、わざわざ植物園に足を運ぶというのも億劫です。今ならインターネットで画像検索が出来たり、植物の名前を同定するためのアプリなどもありますが、似ている植物も多いわけで、調べてみてもよく分からないということがよくあります。その結果、見知っているけど名前を知らない、あるいは反対に名前は知っているけど、実物を知らないというものが年々増えて行きます。

 名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。すべての物にある。
 私は子供の時から本が好だと云われた。少年の読む雑誌もなければ、巌谷小波(いわやさざなみ)君のお伽話もない時代に生れたので、お祖母さまがおよめ入の時に持って来られたと云う百人一首やら、お祖父さまが義太夫を語られた時の記念に残っている浄瑠璃本やら、謡曲の筋書をした絵本やら、そんなものを有るに任せて見ていて、凧と云うものを揚げない、独楽と云うものを廻さない。隣家の子供との間に何等の心的接触も成り立たない。そこでいよいよ本に読み耽つて、器に塵の附くように、いろいろの物の名が記憶に残る。そんな風で名を知つて物を知らぬ方羽(かたわ)になった。大抵の物の名がそうである。植物の名もそうである。


森鴎外「サフラン」

随筆「サフラン」ではこのように言っていますが、もちろん名前だけ知って実物を知らない物は多くとも、知ろうという探究心は鴎外にはあるということは、この随筆が子供のころ、「サフラン」という異国の植物の名前を読書で知って、蘭医である父にそれが実際なんのか聞いたというエピソードを語っているということから分かります。

現在では写真を簡単に撮り、そこから調べることが出来るので、実物を知ることがその物を知ることの入り口になることも多いかと思いますが、深くそれについて知るためには名前を知ることが必要です。名前を知ることが何かについてより深い知識を得るための入り口として重要であるということはやはり変わらないでしょう。

さて、植物についてなら、一番手っ取り早く知識を増やす機会は植物園に行くことです。もっとも植物園によりますが、その地域で珍しい植物ばかりが植えてあり、近所でよく見かける植物の名前が知りたかったのに分からなかった、ということが起こることはよくあるのですが(あるいは反対に鴎外の「田楽豆腐」のように、西洋の草花が知りたかったのに、日本の物ばかり生えていて目的が果たされなかったということもあるでしょう)。それでも、ただ美しい花や木の中を散歩するというのは部屋にこもり切りで作業しているような人の気分転換としては極めて優秀な方法であると思います。もっとも、「田楽豆腐のような札」を凝視してばかりいると、かえって疲れるという結果になりますので、気になる物の名前だけ写真なりメモなりするのがおすすめです。

私の住んでいる町にはライデン大学植物園(Hortus botanicus Leiden)という有名な植物園があります。1590年に開園したオランダ最古の植物園です。シーボルトを記念した小さな日本庭園もありますので、日本との関連も高いです。コロナで今年の3月以来閉まっていたのですが、6月に制限が緩くなり、また開きましたので、久しぶりに訪れてみました。

レンガ造りのアーチ門をくぐり抜けて行くと、次の光景が広がります。

ここはまず前庭といったところで、さまざまな花や薬草が植わっています。柵越しになら無料で見られますが、中に入るには植物園のチケットを買わなければなりません。

ガラス張りのチケット売り場は温室でもあって、上に昇って置いてある植物をみることも出来ます。一階にはカフェが入っています。

Stachys officinalis (l.) rtevis bethonica 

上で見た「前庭」に入ると、さまざまな日本ではあまり見かけない花や薬草が植わっています。上は英語でbetonyと呼ばれる花で薬草として用いられてきた歴史があります。不安や高血圧に効くとされているのだとか。

Ribes uva-crispa

これはセイヨウスグリです。紙風船みたいな実が可愛らしい。実は甘く、ジャムなどにできます。

Verbascum blattaria

この背の高い植物は日本語ではモウズイカとして知られています。

これはなんでしょうか。見覚えがあるのでは。

シャリンバイでした。この植物園では日本の植物に対してこうした日本語の表記を見ることも出来ます。


時期ごとにこうした企画展のパネルも立っています。この時はピルグリムの庭というテーマの展示でした。ライデンはピルグリムたちがアメリカ大陸に出発する前に滞在した場所として知られています。彼らはイギリスでの迫害を逃れて、まずオランダに移動し、ライデンで生活していたのです。

これも見覚えがある花ですね。

そうです。これはヤマボウシです。訪れた時期は六月中頃で、見事に白い花が咲き誇っていました。


これはシーボルト先生を記念した庭園。アジサイを背景にしたシーボルト先生の左眉だけなぜ上がっているのかが謎です。いや、渋いですけどね。ちなみにここは日本っぽい庭園の造りになっているというだけであり、日本の植物がここ一カ所に集まっているわけではありません。上のヤマボウシしかり、日本の植物は園内に散らばっています。

ここはどこ?

中国の薬草園でした。

中国らしい壺が並んでいます。

これは黄花蒿。和名でクソニンジンという非道い名前が付けられていますが、極めてよい香りがします。現在のスパイスを多用した食習慣にも慣れた日本人であればこれを悪臭だと思う人はいないのでは。手で擦るとよい香りが手につきます。


通草(カミヤツデ)

この馬鹿でかい葉っぱはどこか人を高揚させる作用を持っているに違いがありません。大きい葉っぱを見るとわけもなく興奮しませんか? 葉の裏は繊毛状になっています。茎から書画などに用いる紙の一種を作ることができます。

Gunnera manicata

大きい葉っぱつながりで。水辺にこんな大きな葉っぱが生えていたら子供心をくすぐられます。英語でBrazilian giant-rhubarbとも呼ばれますが、別にルバーブの近縁ではないのだとか。写真からでは大きさが伝わりにくいと思いますが、散歩していてこんな物に出くわしたらびっくりするような大きさです。子供だったら間違いなく興味を惹かれて、ニコニコしながら接触を試みること請け合いの珍妙な見た目の植物です。

Oenothera fruticosa

この美しい花の和名はキダチマツヨイグサです。北アメリカ原産。マツヨイグサ属のいくつかの種は日本でもいくつか帰化しています。


運がよければ花壇や植木鉢に身を落ち着けたこうした猫たちに会うことも出来ます。さらに運がよければハリネズミの姿を見ることも出来ます。私は一度オークの木の下で目撃しました。

見知らぬ物の名前を覚えるのは結局徒労となることもあります。普段接触することのない物について人は長くは記憶を保てないからです。つまるところ、その人にとって、その物はさして重要ではないのです。

しかし鴎外は自分のサフランの知識が結局大して深いものではないと断りながらも次のように言います。

(…)どれ程疎遠な物にもたまたま行摩(ゆきずり)の袖が触れるように、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである。


森鴎外「サフラン」

ここでいう「物語」の定義は定かではありませんが、ひとまず人が何か自分の知っていることについて語ることだとしましょう。深くそのことについて知っているのが一番ですが、現実として森羅万象に通じるのは難しい。しかしただすれ違った物事についてにせよ、精一杯の興味を向けて語るのなら、それは立派なことだと、そう鴎外が言っているような気がします。

*森鴎外の引用は『ちくま文庫版準拠森鴎外全集』(インクナブラ、2015、Kindle)より。適宜ルビを省略し、また付けた部分でも視認性のため、ルビではなく丸括弧に入れた。

ライデン大学植物園(Hortus botanicus Leiden)

住所:Rapenburg 73, 2311 GJ, Leiden

開演時間:冬(11/1-3/31)は10:00-16:00(月曜休み)、夏(4/1-10/31)は10:00-18:00(毎日)。

料金:一般8ユーロ

(2020/7/12現在)

 

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オランダ在住。オランダの文化や自然、その他ファッションについてなど諸々発信していきます。