子供、il vero(真実)――イタリアの画家アントニオ・マンチーニ

まだらの牛

もうひと月以上前のことですが、ハーグのメスダハ・コレクション(De Mesdag Collectie)に行ってきました。メスダハ・コレクションは夫婦そろって画家であり美術コレクターであったヘンドリク・ウィレム・メスダハ(Hendrik Willem Mesdag)と シーンチェ・メスダハ・ファン・ハウテン(Sientje Mesdag-van Houten)によって創設された美術館です。ヘンドリク(1831-1915)は画家になるための勉強は学生の頃からしていましたが、シーンチェ(1834-1909)が1866年に父から遺産を受け継ぐまではビジネスマンとしてキャリアを歩んでいました。そして、1881年に今度はヘンドリク自身がその父から莫大な遺産を相続し、彼らの収集品は大きく拡大することになり、1887年にとうとう自分たちの家の隣に美術館を開くに至ります。

この美術館を訪れた日はちょうど「特異でとっぴな画家マンチーニ」(Mancini. Eigenzinnig & Extravagant)という展覧会の最中でした。特にこの展覧会を目当てに行ったわけではなく、まだ行ったことがない美術館なので訪れてみただけだったのですが、そこで展示されていたアントニオ・マンチーニ(Antonio Mancini, 1852-1930)の絵に魅了されました。あまり日本で知られていない画家ではないかと思うので、ここでご紹介したいと思います。

アントニオ・マンチーニ,「アトリエにおける自画像」(Self-Portrait in the Studio),  1878, 板に油彩,  21cm x 31.5 cm, Galleria d’Arte Moderna di Palazzo Pitti, Florence (筆者撮影)

メスダハとマンチーニ

メスダハははやくからマンチーニの才能に目をつけ、絵を買い始めました。はじめてマンチーニの絵に遭遇したのは1876年、パリのオペラ広場(Place de l’Opéra)にあったGoupil&Cieという画廊で、そこでメスダハは「病気の子供」(The Sick Child)という絵を買いました。23歳だったマンチーニはそのころ、ナポリからパリに来ており、Goupilと期限付きの専売契約を結んでいました。

アントニオ・マンチーニ,「病気の子供」(The Sick Child),  1875, 画布に油彩,  78 cm x 65 cm, De Mesdag Collectie, Den Haag

マンチーニは貧しい仕立て屋の息子で、12歳のころからナポリでInstituto di Belle Arti(ファインアート学院)で絵を学びはじめました。学院での成績はよく、賞の常連でした。彼は18歳でナポリの展覧会でデビューし、画家として順調なスタートを切っていました。1872年にはかの有名なパリの「サロン」デビューを果たしています。

1885年にメスダハはマンチーニから突然手紙を受け取りました。「病気の子供」以来いくつか画商を通してマンチーニの作品を買っていたメスダハでしたが、ここから直接、画家との取引が始まることになります。

メスダハがマンチーニにした申し出は法外なほど気前のよいものでいした。ただちに2500フランという、当時の画家の一年の所得として非常に好待遇な金額を提示し、代わりに絵画や習作を送るようにと申し出たのです。両者の関係はその後、途中でこれ以上作品を買うのは難しいという手紙をメスダハが送ったりもするものの、1905年までの20年続きました。

驚くべきことにしかし二人は一度も直接会うことがありませんでした。マンチーニがオランダに足を踏み入れたのは生涯に二度(1902年と1911年)あり、1902年に彼はメスダハの美術館のドアの前まで来ていたのでした。金遣いに荒く、また家族や親戚を一人で養っているような立場にあったマンチーニは、成功した画家であったとはいえ、常にお金に困っていました。メスダハが自分の絵を売ってかなりの利益を上げていると耳にした彼は利益を還元してもらおうと交渉しようと考えていたのでした。しかしドアの前まで来たものの、ついに中に入ることはありませんでした。のちに自分の甥アルフレド・マンチーニに語ったところによると、自分が貧乏であることを恥じる気持ちから中に踏み入る勇気がなかったのだといいます。

子供をモデルにした作品が多い

アントニオ・マンチーニ,「誕生日」(The Birthday), 1885, 画布に油彩,  87.7 cm x 115.5 cm, De Mesdag Collectie, Den Haag
絵のモデルは画家の甥(Telemaco Ruggeri)

展覧会の会場に入り、最初に抱いた感想は、子供をモデルにした絵が多いという印象でした。入ってすぐの部屋には自画像の他はほぼ子供をモデルとしたもので、あどけなくも同時に憂いを含んだ表情を見せた子供達が描かれた作品群に好感を持ちました。小さい、取るに足らないような存在の日常の一瞬を切り取った絵の数々は、この画家のことを何も知らないでふらりと立ち寄った客のせわしなく動く目をそれぞれの画布の上に固定させるに十分な力を持っていました。

アントニオ・マンチーニ,「少年聖歌隊員」(The Choirboy), 1872, 画布に油彩,  66 cm x 52.5 cm, De Mesdag Collectie, Den Haag

マンチーニは画業の最初のころは特に子供を集中して描いていました。その理由のひとつには当時お金に困っているのが常だったイタリアの画家たちは路上の浮浪児たちや自分の家族をよくモデルとして使っていたからだといいます。マンチーニの絵のモデルも例外ではなく、サーカスの子供や甥や姪といった家族をよくモデルにしています。

精神的に不安定

画家が精神的に不安定であるというのは珍しいことではありませんが、マンチーニも精神的な問題を抱えていました。1881-82年の間の一時期にはローマで精神病を治療するための施設に入っています。同時代人たちはマンチーニの気まぐれで気難しい性格、不安症、無作法なふるまいなどを証言しています。

「真実」を目指して

マンチーニの気難しさなどは画業においては完璧主義として現れています。彼はil vero(真実性、リアリティー)を生涯を通じて目指していると公言していました。初期には細い筆を使った、正確で細かい描き方に凝っていましたが、だんだん緩くパレットナイフで厚く絵の具を塗りつけるような描き方に変わっていきました。それはこの画家の中での「真実」観が熟していった過程とみればよいのでしょうか。ともかく、その効果はイタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(1863-1938)がマンチーニの絵を「最も美しいペルシャ絨毯」に比してたたえたような出来栄えでした。

アントニオ・マンチーニ,「物思い」(Lost in Thought), 1889-1890(De Mesdag Colleciteのサイトに記載されている年代は1895-1898となっているが、それは誤り), 画布に油彩,  100 cm x 60 cm, De Mesdag Collectie, Den Haag

画家の姪(Agrippina Ruggeri)が描かれたこの「物思い」という作品は絵の具の塗り方について面白い点があります。モデルの顔部分は薄く繊細に、ブラウスやスカート部分は荒くまた厚塗りであるという対照があるのです。こうした技法の使い分けがil veroと関係しているかもしれません。

Graticola

はじめてそれらの絵を見た時は、ずいぶん風変わりな絵だと思いました。描かれているのは19世紀らしい写実的な人物像ですが、その手前に窓格子のような線が入っているのです。なのではじめは窓の外から部屋の中を描いたものかと思いました。

アントニオ・マンチーニ,「喉の渇きを癒す」(The Refreshment), 1899年前, 画布に油彩,  99.8cm x 60.2 cm, Dordrechts Museum (Van Bilderbeekコレクションから貸出し中)(筆者撮影)

しかしそれはより現実に近付くことを偏執的にまで目指したマンチーニが発明した独特の画法によるものでした。彼はモデルの前に、枠に糸を張った格子(graticola)を置き、さらに同一の格子を画布の上にも設置して絵を描くという奇抜な方法を試しました。現代のスマホなどでは写真を撮る際にグリッド線を入れることができますが、それと似たことをしていたのです。なお、この方法を取ると、モデルは等身大に描かれることになり、このことからもマンチーニいうところのil veroとはどういうものなのか、ということの一端が知れます。

展覧会にあったgraticolaの説明パネル(筆者撮影)

糸は時には縦と横だけでなく、斜めにも張り渡されました。画布の上に設置されているので、絵の具の下に隠れ、最後に糸を取り除いた際には、格子模様がくっきりと残ることになります。

ちなみにこの画法をメスダハはまったく気に入っておらず、自分に送られて来る絵についてマンチーニに格子模様を取り除くようにお願いしました。しかしここにマンチーニの頑固な気質が出ているとみるべきでしょう。メスダハのお願いに対し、彼はまったく聞く耳を持ちませんでした。

ガラスや金属を埋め込む

マンチーニは実験的なことを好む画家でした。いくつかの代表作は絵の具といっしょにガラスや金属などが埋め込まれていることで知られています。

現代ではアートはなんでもありという様相を見せていて、特段驚くことでもないように思えますが、当時はこの手法は時代に先んじたものでした。時にはマンチーニはあざけりの対象になり、パロディ作品なども作られました。

知らない画家の展覧会を訪れて、一見平凡に見える絵の前を通り過ぎながら、ふとした瞬間にぐっとその画家にひきつけられるきっかけとなる絵があります。筆者とマンチーニの場合にはそれは「ナポリの少年」(The Neapolitan Boy)でした。近くから見ると、なんだかわけの分からない絵の具とガラスなどが塗りこめられた壁のように見えたのですが、一歩二歩、さらに下がって行くと、絵のタイトルになっている少年の姿が浮かび上がってきます。


アントニオ・マンチーニ,「ナポリの少年」(The Neapolitan Boy), 1895, 画布に油彩,  165.5 cm x 66.5 cm, De Mesdag Collectie, Den Haag

Graticolaも使われたこの独特の絵が私がマンチーニに魅了された理由の一番大きな理由です。絵を楽しむためには画集もありますし、今日ではインターネットで様々な絵の画像が見つかります。しかしそれでもなお美術館に人が行き続ける理由はなんでしょうか。その理由の一つは、絵というのは、完全に二次元であるわけではにというところから来ているのだと思います。多くの油絵は絵の具の厚塗りなど、3Dの世界を供してくれています。教科書やインターネットでちらりと見ただけの絵が、本物を見てみると、印象が大きく変わるというのは、主にその立体性にあるのではないかと思います。

今回ん展覧会には、他の美術館から集められたマンチーニの作品も多くあり、彼の画業を一望する最適な機会でしたが、もちろんリナシメントの読者の方は今すぐデン・ハーグに飛んでこの展覧会を見るのは難しいでしょう。しかしDe Mesdag Collectie自体、Manciniの絵を多く所有していますので、是非いつか訪ねてみてください。

 

Exhibition Mancini: Eccentric & Extravagant, De Mesdag Collectie

ここに掲載したアントニオ・マンチーニの絵の写真(筆者撮影を除く)の著作権はDe Mesdag Collectieにあり、許可を得て転載しています。

メスダハやマンチーニについての記述は次の文献(展覧会のカタログ)に大きく依拠しています:

Adriennne Quarles van Ufford, Mesdag & Mancini, De Mesdag Collectie, 2020.

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